緣由發展

昭和20年(1945年)8月15日、第二次世界大戦が正式に幕を閉じた。翌年(昭和21年(1946年))、台湾高雄県紅毛港の漁民がボラ漁に出漁した際、不意に一体の頭蓋骨が魚網に掛かった。この漁民は、頭蓋骨を草葺の小屋だった祠の神棚に安置して祀った。これが「海府大元帥(略称:海府)」の由緒である。

後に「海府」が霊験を呈したことから、村民の洪送が「海府」への恩返しの思いを抱き、廟・保安堂を建立するための奉納活動の発起人として立ち上がった。保安と名づけたのは、村民たちの海上や居住地での生計を神様が無事に守って下さるとの願いを込めているためである。しかし、村民は「海府」の身元については一切知らず、ましてその頭蓋骨の出自が日本帝国海軍士官のものであったということは知る由もなかった。ちょうどこの時期(1967年頃)において、高雄港の第二港湾を開発するために紅毛港の土地の一部が徴収され、日本人技師も新港の建設に従事していた。ある晩、日本人技師の夢枕に大日本帝国海軍の士官が軍服姿で立ち現れ、「セメント500袋を用意し、廟を建立して欲しい」と伝えた。「海府」を祀る草葺小屋の祠は、技師の工事現場の近隣にあり、技師は早速500袋のセメントを寄付した。同じ時期、日本語を解さない台湾漁民の李石安は、突然憑依され、日本語で「自分は第二次世界大戦末期、バシー海峡において米国潜水艦に撃沈された《蓬38号艦》の艦長である」と託宣した。

以上のように、保安堂は当初より日本国の寺社の様式で建立された。現在、その祠には、郭府千歲尊(かくふちとせそん)、宗府元帥尊(そうふげんすいそん)及び海府大元帥尊(かいふげんすいそん)が祀られている。

紅毛港廃村となった後、保安堂は鳳山にある現在の場所に移転した。この廟は、台湾で唯一の大日本帝国軍艦の戦没者の英霊を祀る廟堂である。ここには毎年、日本国からの訪問団が大参拝に訪れ、さまざまな交流や活動を行うのが恒例となっている。

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